憂鬱なときは秋猫

役者、環の文章置き場です。

NTLive『みんな我が子』を、みた。~探偵は居なくとも、事件は稀に解決する~

シネ・リーブル池袋のNTLアンコール祭りでナショナルシアターライブの『みんな我が子』を観てきました。

 


ナショナルシアターライブというのは、イギリスの国立劇場を中心に上演された演劇作品を各国の映画館で楽しめるというものです。

イギリスという国では、映画やドラマで活躍している役者たちのほとんどが舞台出身であり、舞台で成功しなければ役者として認められないと言います。ナショナルシアターライブでも、ベネディクト・カンバーバッチヘレン・ミレンらなど錚々たる役者の出演作が見られ、これはまさに演劇大国イギリスの演劇の輸出とも言えるかと思います。

 

『みんな我が子(All My Sons)』は、アメリカの劇作家アーサー・ミラーという人が1947年に発表した戯曲で、同じ年にはテネシー・ウィリアムズの『欲望という名の電車』がブロードウェイで初演されています。

時代を反映し、作中では第二次世界大戦後の資本主義や道徳観についても言及されます。

 

私の思う、この作品の面白さは大きく二つ。


一つは、登場人物のみんながみんな違う真実を信じていたり、別々の価値観・立場を持って存在しているところ。

 

まず、登場人物が各々裏に抱えているものがとても難解です。終始それぞれのスペックとスタンスを頭の中で確認しながら観ていましたが、正直作品自体の作りの問題なのか、全員をまんべんなく描き切れているとは思えなかったり、説明台詞だなと思ってしまう部分もありました。

星占い好きの友人フランクとかも掘れそうだったし、婚約者アニーと長男クリスとか「そこ詳しく…!」って言いたくなります。

全体を通しての作品のイメージは、バラバラの面がふとひとつの多面体に嵌まった途端、一点で崩れたという感じでした。

 

特別存在の歪さで印象的だったのは、やはり次男が生きていると信じ続ける母ケイト(演/サリー・フィールド)でしょうか。
昔は近所でも評判の若くて優しくて美人なおばさんだったであろう彼女も、戦争に行って帰ってこない次男の死によって歪んでいます。
息子の死を認められない彼女が、その次男の元カノ(アニー)に「心の底ではまだ想ってるのよね?」と詰め寄るところがとってもホラー。
でも彼女の中では星占いとか夢のお告げとか、とても幻想的な原理で息子の死の真相を感知しようとしていて、言ってみればリリカルホラーなのです。変わるまいとした結果、変わってしまっているというのが切ない。


もう一つは、作中に過去のこととして描かれる二つの大きな事件同士が、どの軸でどのタイミングで繋がるのかというところです。
これはこの作品の醍醐味でもあり、この作品を探偵の出てこないミステリーの様にしている要素。


登場人物たちはみんな、結局「自分の正当性を示したい」というところで動いていきます。繋がる様で繋がらず、筋が通っている様でいない話をしているところに、突然の来訪者(アニーの兄)が来ると、食い違いは決定的に、事態は糸を巻かれたように急速に終わりに向かっていきます。

結局最後は各々事態の責任を押し付けあうのだけど、夫婦では「次男だ」と意見が一致する。だけど、その死因が自分だとわかったから父ジョーは自殺するしかない。論理はないこの脈絡が奇麗だと思います。

タイトルの『みんな我が子』。これはジョーの台詞で「二人とも息子だ」と訳されていましたが、「みんな我が子(の所為だ)」ということかと思いました。

 


今回のセットは、とても写実的で、歴史写真から抜け出したような家と庭に、大風の翌日という設定を忠実に再現した、落ち葉や薔薇の花びらや木の枝は本物に見えました。

こういう美術って会話してる時にちょっと弄ったりだとか、座る時に退かしたり、演技の拠り所とか言ったりするのですが、そういうものが多い印象で、役者がその場に存在する事がかなり簡単になっているように感じました。

 

その俳優もやはりすごいです。アーサー・ミラーの与えた難解なそれぞれの役割を、誠実に果たしているように思えます。

 

告白の時に「アイラブユー」しか言えない長男。「いい歳して…」と寒くなってしまいそうなところを、むしろ可愛い感じになっていて、リラックスしてるアピールの手の謎の動きとかも凄く好きでした。

「ここは動物園だ」(うろ覚え)という台詞があったのですが、最後の彼が四足歩行の何かに見えたのが痛ましかった。

 

アニーの兄ジョージは今回一番の推しだったのですが、好きだった女の子が結婚して三人の子持ちになっていて…というところで「うわー…」となりました。居た堪れない。

その彼女もジョージのことが好きで、と、『あなたのことはそれほど』みたいな展開だったのですが、彼女が変な笑い方で家に帰っていくところ「つらみ。え、つらみ。」という心境

 

父ジョーでいいなと思ったアイデアが、林檎をアニーとクリスに切り分けるところ。有能な事業家で資本家でありながら、家族に対して何か残したいと思っている人物像が身に沁みました。

けれど、脳裏に残ったのは彼が「 上着を取ってくる 」と家に入っていくところです。


演劇に自殺が登場したのはいつからなのでしょうね。

少なくとも、近現代までにありきたりで大袈裟で退屈なものになっていたはずです。それをチェーホフが『かもめ』で、決定的な場面を描かない(銃声のみで表現する)というシステムを開発したことで、よりささやかにより身近なものに描ける様になりました。演劇のいいところはこういう発明に特許がないことですね。

ただ、こうやってたやすく自殺で結末を解決してしまうのはいかがなものだろう。

というのも、観ていてこの場面に、一抹の既視感を抱いてしまったからです。この家の地下室に猟銃があると知っているが故に、銃声が鳴る前に、セットの地下室の電気がついたときに察知してしまったのがなんだか損した様で悔しいのです。己の!!頭の良さが!!にくいの!!

 

そろそろ人類は新しい自殺表現システムを開発する時に来ているのかもしれない…なんて、大業なことを考えてしまいました。

 

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2020/08/04 鑑賞。